いままでのこと ブログトップ

いままでのこと [いままでのこと]

1969 愛知県生まれ

1991 ボイスのビデオをダビング中に「コレを観て私にもできると思ったら、
それは、あなたがアーティストだからだ。
後はやるかやらないか。」とTVの中から言われ、やる事にする。呪いのビデオ。原点。

1992 神棚を破壊、何も無くなった、自分さえ無くなった、絵を描いていた。
そして、芸術が宗教に成った。

1993 絵で「極まりそう」だと感じ「キワマリ荘の住人」個展シリーズ始まる。
貸し画廊で計4回の個展をする。新聞紙(第一世代)の作品は、この頃から始まる。

1994 「ネオギガ」展
始めは大きめのキャンバスにアクリルで描いていたが、
伝えたい事に、コレだけの大きさや色が必要なのか?と疑問を持ち始め、
お金、時間、色、線などを、吟味し始める。
ネオギガとは、「楽書き」が、あらゆる芸術の原点ならば、それを極めよう、と言う考え。

1996 住んでいたアパートを大家さんの許しを得て「キワマリ荘」(愛知県犬山市)と改名。
同年秋、脱サラし、キワマリ荘内でアートドラッグセンター(アートで心を治療する)を始める。
この場所は、後にラブラブ荘と呼ばれ、多くのカップルを誕生させ、ボットン便所に携帯を落とすと恋が実ると言われた。

1997 「神の生活」展、1998「アートドラキュラ」展
この頃は、自分の弱さを、いかに克服するか、「そのままの自分で良いんだよ」を、
獲得してゆく、「それでも生きてゆかなければならない」事に必死な時代。
この頃から、個展は入場料(500円)制を導入。

1997 〜2004 わら半紙(1997〜)と新聞紙作品を制作。
ノートもこの頃から。ノート、わら半紙、新聞紙と、右に行くほど作品を意識している。
新聞紙作品(第二世代)は新聞紙の中央にアクリルの白を塗り、中に鉛筆で絵。

1998 〜9 ワタリウム美術館の展覧会 to the living room展。
近所のアパートに五ヶ月間、住みながら発表した。約五千人の相手をしたようだ。
その時、日常がアートなら何もしなくても良い、と思ってしまい、作品が作れなくなる。
一年後、結局「好きだから絵を描いているだけ」と描きだす。

2001 忍美(しのび) 
思いどうりにならないモノ。本当に必要なモノ。「ある」モノ。美の核。
この年に「鑑賞と忍美。」展を開催。

2002 の頃、絵が巧くなりすぎてダメだ!と言われ、絵が描けなくなる。
何を書いてもコレは気に入ってくれるかなぁ?と言う絵に成ってしまい、パニックに成る。
一年後、結局「好きだから絵を描いているだけ」と描きだす。

2004 〜2005 「風景がキレイ」に見え始め、作品が描けなくなってゆく。
2005年には、打ち止めになり、狂ったように色々(油絵、写真、映像)手を出す。
今、そのほとんどが残ってない。

2006 何も描くものが無くなったので、指を触って骨を描いた。
そして、顔を触って頭蓋骨を描いた。
何か」が変わった気がした。和紙に作品を描きだす。

「視覚文学・俳画大津絵の理論」
日本の美しさは「物語」にある。
ならば、誰が描こうが、何枚描こうが、美しさは劣化しないはず、と言う考え。
この年に「視覚文学論」展を開催。

2007 マイクロポップ展を機会に水戸に引っ越す。
キワマリ荘(愛知県犬山)を後輩に譲る。
水戸のキワマリ荘を立ち上げる。
達磨の絵に執着し、一筆書きにし、ついには針金で達磨を制作。

2009 千葉に引っ越し、結婚。
水戸のキワマリ荘を後輩に譲る。
4年ぶりに新聞作品(第三世代)始める。
秋、東京で個展、稼ぎまくる予定が赤字。今までの最低年収を軽くクリア決定。

あいちアートの森の話が来る、命拾い(奇跡ステキ!)。


つづく



共通テーマ:アート
いままでのこと ブログトップ

有馬かおる

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。